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Channel: 帰ってきた不良中年
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えっさ、えっさ、一茶ほいさっさ♪

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初夢に古郷を見て涙かな
 
昨年の夏のこと、信州は信濃町柏原に立ち寄り、江戸を代表する俳人・小林一茶の記念館を訪ねた。

館内に掲示されている一茶の足跡をたどる年表を見ていた私は、晩年に信州に戻ってからの生活の記載に、思わず「二度見」してしまった。
そして、ふと頭の中にけしからぬ想像が浮かんだのであった。
 
その時に記念館に置いてあった小冊子には、次のような記述がある。
「50才で帰郷、遺産問題を解決し、ようやく52才で結婚、4人の子どもが生まれましたが、次々と亡くなり、妻にも先立たれました。一茶は再婚、離婚、三度目の結婚後、柏原宿の大火で我が家を失い、焼け残りの土蔵に仮住まいのまま、65年の生涯を閉じました。」(『一茶と歩く北信濃 小林一茶生誕250年』)
とさらりと記されている。
 
52歳で結婚…である。
館内の年表には妻のきくは28歳とあった。
ん…28歳!?
って、今でいう思いっきりな「歳の差婚」じゃないの!
 
 
捨てる神あれば拾う神あればぞ我も花の春
 
しかもそこから、ドンドコ4人の子をもうけたのである!
 
名月をとってくれろと泣く子かな
 
 
しかし、一茶の喜びはここまでであった。のかも。
残念ながら第1子の長男・千太郎は生後1か月で亡くなり、2子長女も1年ほど。その後次男をも失い、結婚9年目、一茶61歳のときには、ついに妻と三男も亡くしてしまう。

全滅である。
女性が高齢の場合は出産にあたりさまざまなリスクを伴うものだが、男も高齢だと、やはり生殖細胞のDNAに修復不能の「疲れ」が出てくるのだろうか。
このとき妻のきくは37歳であった。
50歳を越えてようやくつかんだ束の間の家庭生活。
どれほどの哀しみが一茶を襲ったか、想像に難くない。
翌年、彼は悲しみにくれたまま
再び放浪の旅路のために故郷を離れたのだった
…かというと、全然そんなことはなく、
ななな、なんと再婚するのだ!
あらま。
 
すでに59歳のころに脳卒中で倒れ、半身不随の一茶である。
しかしその二人目の妻である雪(38歳)とはたかだか2か月程度の結婚生活で、すぐに離婚(というか、中風病みのジジイに愛想尽かして実家へ逃げ帰ったようだ)。

もう、いい加減にしたらどうかね、一茶よ、
と言いたくなるね。
なのに、なのに、ああ、すごすぎるぞ一茶。
64歳になって、あろうことか、やを(32歳)と3度目の結婚。
なんかの条例に触れてもおかしくないほどの年の差じゃないか。

一緒に暮らして1年あまり経った文政10(1827)年6月、柏原の大火で母屋を消失、夫婦とやをの連れ子は辛くも助かり、焼け残った土蔵で暮らす。
が、その年の11月、一茶は3度目の発作で、ついに65歳の生涯を閉じたのである。
 
(これ)がまあついの栖(すみか)か雪五尺

んんん…しかしこれはあれでしょ、もう身体がガタガタで(雪と別れたあとまた卒中の発作に襲われ、今度は発語が困難になったようだ)、独り暮らしじゃどうにもならないので、いわばホームヘルパー的な存在が必要だったのだろう。
と、普通であれば、これで一件落着なお話なんだけど、
そこは一茶。
期待通り、やらかしてくれるね。
 
一茶の死後、妻やをは彼の子である女児やたを翌年4月に出産したのである。大火で土蔵に仮住まいを始めたのが、6月…
脳卒中で半身麻痺、言語障害もあったという一茶だったが、
いったい土蔵の中で何をやらかしてくれちゃったんだ、一茶。
 
ああ、私の品のない想像、いや妄想だろうか。
どうしてワタシはこうもすぐに下品な憶測をしてしまうのだろう。
下衆の勘繰り、私の邪推か!
たしかに晩婚で、ようやく手に入れた家庭と夫婦のささやか幸せ。子どもが欲しくてたまらなかったのだろう。
が、そんなほのぼのしたホームドラマだけでは終わらないのが、一茶だったり。

彼は妻との「性生活」の記録をこと細かに記録していたのだった。
最初の妻きくとは、彼女の妊娠中にも夜の営みを激しく行い、しかもその日が親の命日であったりしたため、その後生まれた子が夭折したのも、バチが当たったからではないかと、夫婦して畏れたという。つまり、夫婦の交合は単に子供が欲しかったから、という理由だけではぜ~んぜんないのだった。
 
たとえば文化13年8月の記録…
 8日 夜五交合
12日 夜三交
15日 三交
16日 三交
17日 夜三交
18日 夜三交
20日 三交
21日 四交

しかもこれ、長男千太郎が死んだ同年5月からわずか3か月後のハナシだ。
もちろん、子を失った悲しみを乗り越えるべく、次の子作りに励んだということなんだろうが(「妻月水」つまり、妻に月の水などと、しっかりと生理日も記録している)
それにしたってあーた、これ、
草食系男子なんかが逆立ちしてもできないほどのめっちゃタフな回数じゃないの!?
日記には「暁一交」「旦一交」などという表記もあり、暁(未明)、旦(早朝)ということだから、単に「三交」などと書かれているのはまっ昼間ということじゃないか。
懸命に薬草を掘り、滋養強壮の精力薬も摂りまくりと体力づくりにも気を配っていたということでもある(てか、卒中起こしているんだけどねえ)。
50過ぎのおっさんと30の熟女が、朝・昼・晩・明け方と、もう暇さえあれば、
やってやってやってやって、やりまくった♡
ってことじゃないの。
 
ううむ、やっぱこのジジイ、
ソートーな、ドスケベだった、と結論。
もはや、かの世界的ゴルファーも罹患したというあの
 
性依存症♥♡♥♡
 
といっても過言ではない。
 
うわっ、言っちゃった!
ご、ごめんなさい!
いまも彼の俳句をこよなく愛してやまない全国数多の一茶ファンの皆様、けしからぬワタシをお許しあれm(   )m。
 
ゆうぜんとして山を見る蛙かな

一茶の句はなんともおおらかな、そしてほのぼのと温かく、ユーモラスなものが多い。
命の謳歌、生命讃歌の芸術作品と
私生活における生命力や気力(生は性でもある)の充実感、充足感とは、
間違いなく切っても切れない関係がある。

同じく、生(性でもある)の欠乏感や不満足感も、また逆の意味で芸術作品に多大な影響を与えることも事実である。
 
彼の死後に生まれた女児やたは46歳まで生き、明治6年没。
小林家は今も信州柏原に在住とのことで、記念館の裏には小林家のお墓がある。
下の写真をみればわかると思うが、
一茶の墓石の高さがやたらに高いのは、
雪で埋もれても字が読めるように、との理由からだそうだ。
たしかにここいらは、冬は例年かなり雪深い。
のだが、そう言われても、うーむ、なんだかわかったような、わからないような…。
 
ともかくもあなたまかせの年の暮
 
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ちなみに先日、信州へ帰郷する前の一茶が住んでいた江戸は両国(墨田区緑1丁目)周辺を歩き、その住居跡にあるはずの碑を探したのだが、なぜか見つからなかった。
ネットで調べると、ちゃんと碑の写真があるんだけどねえ…?
見過ごしたのか、それとも写真が古く、現在はもう撤去されているのか??
 
大の字に寝て涼しさよ寂しさよ
 
一茶は1763年の生まれ。
一茶誕生に遡ること約80年前の1689年5月16日、松尾芭蕉は江戸深川の採荼庵(さいとあん)を出て、目の前の仙台掘川から船で千住へと旅立った。この『奥の細道』のスタート地点は、地下鉄清澄白河駅のそばである。
下の写真のように、仙台堀川脇の現地には
「さあて、そろそろ出立しようかのう、よっこらしょ」と
今も芭蕉が採荼庵の縁台から立ち上がりかけているが、
そのまま固まってしまったようで、ここはひとつ、アリナミンAの服用を薦めたい。
それにしても背後の半透明アクリル窓が実にナイスである。
 
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地下鉄大江戸線・両国駅から南へ2駅で清澄白河だが、両国の一茶の住まいあたりから歩いても大した距離ではない。

 

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